昭和44年9月22日 朝の御理解

御理解第57節「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。
金にたよるな、人にたよるな、自分自身にすらたよるな。当てになるものは何一つない」


 えー、神様に一心におすがりをし、神様をどこまでも信じ、神様を信ずる、神様に一心にすがる。そこから生まれるのが、この楽じゃということです。
 他のどのようなものでも、実をいうたら、当てにはならんぞと。ね、信用のおけるものというか、あー、頼りになるものは、神より他にはないぞ、と神様はこう仰っておるわけですね。
 どんなに親友であろうが、親子であろうが、兄弟であろうが、どういう人格者であろうがね、それは、いうならば、金を杖についとるようなものであり、木や竹を杖についておるようなものじゃと。
 頼りになるのは、神様以外にはないぞと。そこでその神様を信じ、その神様に一心にすがるところから、頂ける、又生まれて来るのが、まぁ安心じゃとこういうておられる。
 まぁ確かにそうですね。どんなに金があっても、金を頼りにしとるというても、金は曲がる、ね、やはり使うてしまえばもうお終いですからね、確かに金は曲がるであります。竹や木は折れるとこう。ね。
 なかなか、自信家があります。私がやって出来んことはないと。過去の体験から、それを積み上げて来て、いわゆる自分というのを信ずる。他のものは頼りにはならないでも、自分だけは頼りになる。頼りになるのはもう自分だけだ。といったようなことを言う人がありますよね。いわゆるそれを自信過剰と申します。
 自信を持ってことに望むということは、大変それはいい事だと思いますよね。それであんなに力が出来てまいりますと、その自信がやはり出来て来ます。ところが一度その、自信というものはですね、いわば難儀から難儀に直面いたしてまいりますとです、又はその何と申しますかね、不治のまぁ災難とでも申しましょうか。
 思いがけないことになってまいったりいたしますとです、ね、その自信も(ものとう?)崩れてしまうのですね。そして、もう自分も駄目だというようなところにいくのが、まぁ自信のまぁ落ちです。ね、まぁそのくらいなものが自信という。
 ね、自信家でも、(いくそのいまころびおき?)というか、それこそ(ないりん?)もめげず、それに邁進してまいります。それでもそこがはやり人間(の生身?)。やはり自分の木、木というのは心。ね、木や竹は折れると仰る。
 自分の木や竹は折れる。自分の心は必ず折れる時がある。してみると、その、ね、うちの親だけは、うちの子供だけはと、頼りにしておっても、いかにも頼りになっておるようであっても、ね、頼りにはならん。
 自分の、ですらが頼りにならん。いや私には腕があるから、自分の腕を信ずる。というてもです、その自分の腕すらも実を言うたら頼りにならないところからです、ね、神様におすがりするより他にはないのだということになる。
 そこから、なんでしょうかね、いわゆる虚心坦懐とでも申しましょうか。神様にね、人間の無力さというものを、神様の前に投げ出して。ね、虚心になって願う。そこから神様の働きを、みることが出来。そこから、神様を信ずることが出来るようになる。
 いわゆる頼りになるのが神様だけだと、神を杖につけば楽じゃと。ところから、この楽じゃと。それが私共はこの、神を杖につけば楽じゃという、その信心を目指して信心をしておるのです。
 ですから、お金があり、物があり。ね、頭がよくて、商売が上手で、という間はですね、だから本当の神様を杖につく事は出来ません。まぁ大体ほとんどの人が、ね、時々神を杖につくだけです。
 自分には難しかと思うところを、神様におすがりして。その時だけ神を杖についておる。いかに神様に熱心に信心しておるというても、ね、神の杖は何時か、何処にか忘れておる。そして、木や竹を杖についておる。
 これは現実にですね、神を杖につけば楽じゃというのは、実際は、本当は私はこの楽じゃということはないかもしれんと思いますね。厳密にいうと。何故かというと、信心させて頂いておるといよいよ自分というものが分かってまいりますからね。
 自分というものが分かってまいりますとですね、えー、何と申しますかね、私のようなものがというような風になってくるでしょう。私のようなものが、いうならばおかげ頂けるはずはなかといったようなものが、そのあるんですよね、お互いの心の中に。自分というものを本当に分かってくると。
 私の、私のようなものが。それでも、神様やはりおかげを下さるから、勿体無い。もう神様から、いうならば何時おかげの綱が切れてしまうやら、お暇が出るやらと。いうようなものが心の中にあるんです。こりゃ教祖様でも、それを仰っておられますがね。
 神様から何時お暇が出るやら分からん、というならば、薄氷の上を踏む思いを持っておられます。これは、まぁ意味が大変違いましょうけれども、私共でも同じ。何時神様がお暇が、お暇が出るやら分からん。
 このようなおかげを受けておるけれども、何時神様からおかげの受けられんようになってくるか分からん。何故かというと、自分というものが分かるから、そういう一つの、まぁ不安があるわけですからね。
 本当をいうと、厳密にいうと、神を杖につけば楽じゃというような心境というのは大変もう高度なものであってですね、けれどもその、ここに一つの何というですかね、こんな、このような私、このように汚い私でも、ね、神様に一心にすがっていくところから、又神様を信じておすがりしていくところから、神を杖に頂き続ける信心が出来ますとですね、まぁ先のことは言えませんけれども、これは私自身の体験ですから。
 神様がそこんところは、見直し、聞き直し。お粗末ものでありましても、御無礼ものでありましても、ただ一途に神様におすがりし抜いておるということだけでです、いわゆる神様が見直し、聞き直しして、良い方へ良い方へ、おかげな方へおかげの方へとおかげを下さるという一つのこれは、まぁ自信ですかね。信念ですか、そういうものが生まれて来るんです。
 ね、だからもう厳密に言うと、なかなかその楽じゃと、本当の楽じゃということは、けども、やっぱその本当の楽じゃというそれを目指して、お互い信心をさせて頂いておる。
 「信心しておかげのあるを不思議とはいうまじきものぞ」と。「信心しておかげのない時は、これぞ不思議なることぞ」という風に教えておられますね。
 まぁ信心しておかげのあるということは、もう当然のこと。そんなら、本当にお願いをする私共がです、神様のお心に前面的に、神様の心に通う、叶うかというと、そうではないけれども、ね、信心させて頂いておると、神様がそこの、いうならおかげもの、おかげの受け物は預かっても、そこをいうならば、見直し聞き直しして、おかげを下さるという、その事実があるわけですね。
 そすと又こんなこと、風にも思えるんですね。こげなこつまで神様にお願いしたっちゃ、自分は努力せずして、神様にばっかり頼んでっちゃいけんと。こういうことはお願いすることじゃないと。まぁ例えて申しますとね、えー、お腹の中の病気は神様でおかげ、御神米なら御神米、お神酒さんならお神酒さんでおかげ頂くけれども、ね、外相ですねいわゆる、いわゆる内科、外科です。
 ね、こりゃやっぱお医者さんでなからにゃ出来ん。こげなこつは、まぁお願い、神様にお願いして病院に行くけれども、いやそりゃやっぱり内科の方なら神様でよかろうばってん、外科の方はいけないといったような考えをもっておる人が沢山ありますよね。こりゃもっと極端な例ですけれども。ね。
 やっぱり目の方だけは、眼科でなからなきゃ、やっぱいかん。これはどういう事になるかというとですね、まぁある意味合いでは神様を侮っておる考え方です。神様に、もう眼科の方は出来んです、私の方は。外科の方は、医者にいかにゃ、神様じゃ出来んち神様にいよんなさるごとある。決してそんなことじゃない。
 ね、眼科であろうが、外科であろうが。勿論内科であろうが。ね、本当を言うたらこの神、神様がこの体をつくって下さったんだから、神様の手にかかり、神様の信心を願うが、もう一番本当なんですけれどもです、ね、そういうところがですね、神を本当に杖につききらん、これは悲しい事だ、と自分でこれは私自身も思います。
 ね、信心するものの、真の神徳を知らん事と仰るのは、そんなことだと思う。ね、けれどもその、その分野というか、そこを段々狭めていくということだ。ね、私共の信心は。ね。全て一切のことがです、神様のおかげによって頂けないことはないという確信が段々強うなっていくという。
 そりゃ本当に真の神徳を知らん事と仰るが、本当に真の神徳に触れたらですね、それこそ外科も眼科もない。ただただもう驚くばかりのことがある事実は、皆さんが知っておられますでしょうが。いわゆるここでは、大変おかげを受けた人達がありますものね。
 いわゆる神様が手術をして下さったであろうと。ね、神様がお働き下さったんであろうというようにですね。例えていうとあの松岡さんなんかの、弟さんの娘さんなんかの場合なんかそうでしょう。
 眼科もいらなければ外科もいらんというようなおかげを受けて。夢の中で手術をして下さったんですからね。これなんかは、真の神徳をあのようにして見せて下さる。それを私共がほーと見てから、たまがって、そのまぁ何ていう素晴らしい奇跡であろうかという事になる。
 ね、ですからそういうようなことの、私共ではまだ信じきれて、信じきれませんけれどもです、やはりという場合には不安でたまりませんけれどもです、これはまぁ一つのまぁおかげ話として、参考になるといったようなもんじゃなくて、そういうおかげを下さることの出来る神様と信じてそこを、こうそこへ近づいていくということ。ね。
 まぁこれは大変、まぁ至難なことであり、難しいこう例でございますけれども。まぁそんだから、本当いうたら、神を杖につけば楽じゃと仰ることは大変なことですけれどもです、まぁ私共が段々、信心させてもらい神様のおかげが分からせてもらい、それも私共のお粗末ご無礼であるというようなこともです、神様が見直し、聞き直しして、必ずご守護下さるんだ。おかげを下さるんだということが、信じてこれれるようになる。そこに、まぁ私共がいう本当の楽じゃなくても、大体いわゆる楽なおかげというのがあるわけ。
 不思議に自分で一生懸命信心修行でもさせて頂いておる時には、この楽な心というのが、非常に強うなりますですね。それは神様に一心にすがっておるからです。ね、それを信じてすがるということになると、もういよいよいわば安心が生まれてまいります。信じてすがるということ。ね。
 私共が金に頼り、物に頼り、自分の腕に頼り、いえもう息子を頼りにしとると、その息子を頼りにしておってもです、ね、何時息子はころっと行くやら分からんですから。頼りにならん。
 ね、お金だって、これだけの金があるから、もう大丈夫ということはない。段々減ってくると心が寂しゅうなってくる。ね、しかもその金は使えばなくなってしまうものなんです。だから、これは楽じゃという対象にはならない。それは自分の腕ですら、安心のいくというか、楽じゃという対象にはならない。
 まず、そこのところをですね、私共が本当に分からせて頂いて、ね、この方一心におすがりさせて頂く、いわゆる自分の無力さ加減というものを早く分からせて頂いて、私はおかげを頂く人が有り難い。
 だからというて、なら金やら物やら人やらはあてにならんから、ね、頼りにならんから、それをお粗末にするという意味ではない。やはり、ね、人も頼りになることもありゃ、金も物も、やはり頼りになる時もある。
 だから、けれどもこれを、こちらから求めて頼りにしてはならないということ。例えそれは、息子であっても、自分の財産、金であっても。あてというものは、向こうから外れていくもんだ。頼りになるのは神様だけしかないと。
 そこんところが強くなっていった人がです、私は、まぁ今日は深い意味、あの厳密に言えばという意味の事を申しましたがね、そのまぁ日々神様、こうして朝参りもさせて頂いて、今日も一日、無事息災を願わしてもらい。今日も一日神様のご守護の中に、御用させて頂きたいというような願いをかけますから、今日も神様が健康で御用に使うて下さる事であろうと、それを信ずる。信ずるから、そこに安心が生まれて来る。ね、神を杖につけば楽になってくる。
 結局、神様のご信用を頂いて行くということが、楽になるわけですけれども、ね、神様の、まぁいうならば、神様に、神様に好かれておるとか。神様に信用されておると。というものがです、楽なおかげが頂けれることになりますから、私共が何時も、神様に笑われんですむ、神様に信用を落とさんですむ生き方こそが、神を杖につけば楽じゃということになるという、まぁ結論になるわけです。ね。
 どんなに、口に金光様金光様を唱えておっても、それが杖をついておることにはならない。それが安心にはならない。ね。神様の、いうならばご信用を落とすような生活であったり、または神様に笑われるような、ね、節度のない自分といったようなものであってはです、ね、それは神を金光様金光様と口に唱えておることだけではない、神を杖につくということは。
 出来ません。出来ませんけれども、神様のお心に沿い奉りたいという願い。ね、神様お喜び頂けるようなお役に使うて頂きたいという願い。そういう願いに燃えておる。ね、そういう時にはです、いわゆる神様の、いわばご信用というものを、自分で感ずることが出来る。いや必ずおかげを下さる、頂けるという信念が生まれて来る。そこに、神を杖につけば楽じゃとことになって来るわけです。
 ね、だから本当にね、あの、例えば一家を上げてなら熱心に信心をさせて頂いておると。しかもその、信心が何時も神様をご中心に申し上げた信心をしておる。そういうところから、日々が安心のおかげを受けることができる。
 そういう私は、信心が神を杖についておる姿だと思うんです。ね、どこにやはり、このすきがあっても、神を杖にそこからですね、この隙間風というか、不安なものが生まれてまいります。安心と反対に。
 こげんご無礼しとっちゃとかですね。自分だけの信心でとかというのであっては、そこにどうしても、不安なものがちょっと入ってくる。すと神を杖につけば楽じゃといわれるようなことになってこん。
 私共が一心におすがりさせてもらい、一心の修行させてもらい。それでも、何処にお粗末ご無礼があるやら分からんところを、日々お詫びをしていく。しかもそのお詫びが許されていく、おるというような、あー、気持ちを頂けるところまで、信心をさせて頂く。
 そこにですね、神様が見直し、聞き直しして、おかげを下さるという、その安心。またはこちらにお粗末ご無礼があっても、日頃神様ご信用を頂いておるから、神様が顔を立てて下さるという安心。ね、そういう信心が生まれてくる。ね、ここんところを一つ、おかげを頂いていかなきゃならん。
 そこで、まぁこれは一つの、何と言うですかね、不思議にですね、あの、神様の心に何時もこう応えていくという信心ですかね。いわゆる神様が私自身に、私共一家に何を求めてござるかと。
 ね、その神様の心を、神様が私共に求めてござる、それに応えていくという信心。いうならば、こちらがれんこん食うて行くというかね。神様が・・・。
 昨日、こりゃもう何時も、何時もですが、あの高橋さんが、御祈念の後に何時も参って見えますね大体。で私、善導寺にいかなければならない時間に何時も、まぁ合致するわけです。
 ですから、もう、自分がその間は、何かに御用、御用を頂いて、そして私が善導寺に行く時間まで待っておって頂いて、その送って頂くわけです。送られると今度は、あー、まぁ月次祭の時なんかは、もう月次祭は十二時に終わるから、十二時までここにおりゃ、又お迎えにもいけるからというので、まぁおられるわけです。
 そりゃ実際は、おられんとです。忙しい方、体ですから。けれども、口には先生はいわれんけれどもね、送ってくれると良いばってん。又迎えに来てくれると、なお助かるけれどもと。私が思うとるところを踏んでいかれるわけです。こういうのが、やっぱれんこん食うていくというわけです。
 ね、実際はです、そういう信心は出来ていないというわけ。ね、そこまでのやはり、さっきの、虚心坦懐にはなっておられな、おられんのだけれどです。親先生が、送ってくれると良いと思うておられる。又迎えにも来てくれるならなおよかばってん、とこう思うてあるから、それをまぁれんこん食うて、そのことが行じられるですね。
 そういう信心が、その私は出来ておるとです、ですからこれはもう非常に、その何ていうですかね、今日私が申しましたような難しい信心じゃなくてです、こういうところが段々出来て来るようになりますとですね、神様が必ず、また自分の時、自分の信心な出来とらんけれども、神様が顔を立てて下さる。
 神様がれんこんくうて、おかげを下さるといい。信心な出来とらんけれども、というような、その、安心というものが必ず頂けるのだよね。まぁ私共の場合は、その辺のところまでぐらいのことですね。
 まぁ今日の総会は、今日のお祭りは、ちょっとお参りが出来ん。出来んけれども、先生は、一人でも良いということを願っておられる。だから、もう実際は信心じゃないけれども、ね、先生がそう思うてござるから、ことが分かるから、それにこたえていこうという。
 れんこん食うてし、の信心。それは本当なことではないけれどもです、そういう私共は、あの信心をしておりますとですね、神様が、又事実そうです、顔を立てて下さるです。ね、氏子の、神の用を足せば、氏子の用は神が足してやると仰るようなですね。それはあるもんですから、神様が顔を立てて下さる。神様が、んー、れんこん食うて下さるということが段々分かってくるんです。いうような時には、自分の顔を立てて下さる。そこに、私はあの、まぁ神を杖につけば楽じゃというような、ものがそこにもあるとこう思うですね。
 まずそういうところからです、一つ信心の稽古をさせて頂いて、そして、例えば、んー、そういう、例えばその、おー、もう例えば親先生がいかれる時には、もう絶対お送りするんだ。もう絶対何もかにも捨てて、いわゆる虚心坦懐、御用させて頂くんだと。ね、そのことを自分の信心と頂かせて頂くようになりますとです、これは本当なおかげになってまいりましょう。
 いや、本当のおかげというのは、それは、もうお徳になっていくでしょう。ね、けどそこまではいかんでもです、ね、いうならば、先生の顔立てにでも勤めさせて頂きよると、ね、神様がやはり、氏子の顔は神様が立てて下さるという、そこに不思議にですね、それを信じれる心が生まれて来るんです。
 条件つきのような感じですけれどもです、ね、神様の心を踏んで、れんこん食うていく信心。そこから、神様が又、れんこん食うて下さって、私共の、信心の出来んけれどもおかげは下さると。
 そこから、その安らぎというか、安心。神を杖につけば楽じゃと仰るのは、そういうところから、段々本当なものになって行く。それが、そうさせてもらわなければおられない。そうする事が信心だと思い込ませて頂けるようなところへ進んでいく。そこから本格的な、いわゆる神を杖につくということが、いわゆる楽じゃということがいえるとこう思うのです。
 まずなんと言うても、いわゆる金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れるというような事実をですね、やはり突き止めるところから、ね、(無心?)にいわば、神様におすがりすることが出来る。そこから、いよいよ神様を信じれれる力というものが、いよいよ育ってくる。
 今日はまぁ見やすい意味合いにおいての、神を杖につくということ。また大変難しい意味においての、神を杖につくということ。ね、をまぁ聞いてもらったつもりですけれども、えー、私共の心の中に楽でないならば、ね、心が不安で心配でたまらないならば、ね、まだまだ信心が足りんといわれば、神様のれんこん、日頃、ね、神様を使うばっかりで、ね、神様に使われる自分でない事実。
 ね、もっとそれを本格的にいうとです、自分の心に不安、いや本当の楽ではない(ここ?)に、真の信心がまだ分かっていない。実をいうたら、神様をまだ疑うておる。いうならば、もう神様も、むしろ侮っておる。といったような難しいことにまでなってくるでしょう。
 ここんところを一つ極めさせて頂いて、おかげを、ね、極めるということは、自分の心にある、安心ではない心。これは今、神を杖についてはいないんだと。本当な意味においての、口には金光様金光様いっておるけれども、本当に神を握ってはいないのだ。杖についていないのだと悟らせて頂いて、本当に、の神様を杖につかせて頂けれる、神を杖につけば楽じゃと仰るのじゃから、楽でないならば、神をまだ杖についていないと悟らせてもろうて、いよいよ、神を杖につく、ための信心というものがなされなければならんと思いますですね。どうぞ。

梶原 佳行